おしん以来、何十年ぶりかで久々に朝ドラを見ている。
「あまちゃん」
アイドル好きにとっては、ツボるドラマだなぁ。
北三陸で海女さんになった女の子がいつの間にかアイドルを目指すことになって、その母親もかつてはアイドルを目指していた。
北三陸で海女さんになった女の子がいつの間にかアイドルを目指すことになって、その母親もかつてはアイドルを目指していた。
親子の人生にからむ「アイドル」とは一体何なんのか?
日本の80年代芸能史と今の芸能界をからめ、宮藤官九郎なりの解釈で描かれている。
日本の80年代芸能史と今の芸能界をからめ、宮藤官九郎なりの解釈で描かれている。
母親役は小泉今日子。
80年代、アイドル界の隙間をつくようにトップアイドルに上り詰めた彼女が演じている。
80年代、アイドル界の隙間をつくようにトップアイドルに上り詰めた彼女が演じている。
小泉今日子でなければできない役。松田聖子や松本伊代ではダメなのだ。
だって、この役は80年代に「歌が上手くてアイドルを目指していたのに、芸能界という荒波に飲みこまれデビューさえできず挫折した」役なのだ。
アイドルというものを皮肉っているのだ。
アイドルというものを皮肉っているのだ。
80年代という時代の空気にうまく乗っかり、アイドルをパロディーにして売ってしまった彼女ならではの役だと思う。
松田聖子では本気すぎるし、松本伊代では悲しみが漂ってしまう。
そして、ドラマの中で小泉今日子が演じる天野春子にはアイドルを目指していた1986年にレコーディングした歌があった。
それは薬師丸ひろ子演じる期待の大型新人「鈴鹿ひろ美」のデビュー曲を、音痴だった「鈴鹿ひろ美」の影武者としてレコーディングしたものだった。
それは薬師丸ひろ子演じる期待の大型新人「鈴鹿ひろ美」のデビュー曲を、音痴だった「鈴鹿ひろ美」の影武者としてレコーディングしたものだった。
ドラマの1つの設定だが、ちゃんと歌がつくられており、ドラマの中で小泉今日子が歌うということで話題になった。
「薬師丸ひろ子が音痴役で、小泉今日子が歌の才能あふれる役」それだけでも、すごい設定なのに、小泉今日子がその設定のまま歌うのだ。
歌が始まる瞬間、手に汗にぎらずにいられなかったw
♪きーてーよ その火ーを とーびーこーえーて
「キョンキョンすごい!」
それが、最初の感想。
小泉今日子は、決して、歌の上手いアイドルではなかった。
だけど、さすが、80年代のアイドルシーンを生き抜いた人。
きちんと、自分の歌にしている。
小泉今日子は、決して、歌の上手いアイドルではなかった。
だけど、さすが、80年代のアイドルシーンを生き抜いた人。
きちんと、自分の歌にしている。
「自分の歌にする」
当たり前のことだが、最近の音楽番組を見ていたら、全くないことだ。
もちろん、テレビを見た人へのアピール度も抜群で、「天野春子の潮騒のメモリーっていいよね」と評判はうなぎ昇り。
満を持してのCD発売となる。
もちろん、テレビを見た人へのアピール度も抜群で、「天野春子の潮騒のメモリーっていいよね」と評判はうなぎ昇り。
満を持してのCD発売となる。
自分も「あの曲をちゃんと聞いてみたい」と買った。
それもフライングしてw
それもフライングしてw
あらためてCDで聞いたら、やっぱりすごかった。
小泉今日子の本気度が半端ない。
彼女の歌手人生のあらゆる技を使って歌っている。
小泉今日子の本気度が半端ない。
彼女の歌手人生のあらゆる技を使って歌っている。
ハッキリ言って、曲も歌詞もいいところはあまりない。
なんせ、5分ぐらいでできた曲らしいし、曲自体は80年代アイドルのパロディーの域を出ていない。
なんせ、5分ぐらいでできた曲らしいし、曲自体は80年代アイドルのパロディーの域を出ていない。
だが、小泉今日子の歌が、ただのパロディーソングであることを許さない。
どうでもいいような歌に、命が吹き込まれる。
当時の歌手はみんなこうやって歌を作っていたのだ。
それを思い出させてくれた。
いつから、歌が楽器になってしまったのだろう。
それを思い出させてくれた。
いつから、歌が楽器になってしまったのだろう。
ドラマの中では小泉今日子=天野春子の歌ではなくて、薬師丸ひろ子=鈴鹿ひろ美の86年のヒット曲ということなので、世間の人も天野春子が録音したとは知らない。
その中で、2010年に天野春子が「たまたまカラオケで歌う」という設定。
その中で、2010年に天野春子が「たまたまカラオケで歌う」という設定。
なのに、小泉今日子はカラオケとは思えないぐらい本気で歌っていた。
なぜ、こういう演出になったのか。
宮藤官九郎は、当時のアイドルというのは歌手だったということを示したかったように思う。
本気で歌わせることで、今のアイドルとの差を明らかにしたのだ。
宮藤官九郎は、当時のアイドルというのは歌手だったということを示したかったように思う。
本気で歌わせることで、今のアイドルとの差を明らかにしたのだ。
ただのカラオケであることと、実は原曲を歌ってた人であること。
その両方を両立させた小泉今日子はさすがだし、宮藤官九郎も小泉今日子だから歌わせたのだと思う。
「なんてったってアイドル」を歌っていた時、「変な歌歌わされてかわいそう。自分を否定するみたいな歌。だけどカワイイからいいか」ぐらいにしか思ってなかった。
どっちかっていうと、小泉今日子のシングルでも嫌いなほうだし。
どっちかっていうと、小泉今日子のシングルでも嫌いなほうだし。
でも、今回のドラマであらためて気付いた。
あの変な曲を、作品として仕上げたのが小泉今日子の実力なのだ。
本当にアイドルである小泉今日子とパロディーを演じる小泉今日子が共存できる、それが彼女の才能なのだ。
本名の小泉今日子で活動していたのに、どこか架空の人のようであった、そのフワフワ感。
本当にアイドルである小泉今日子とパロディーを演じる小泉今日子が共存できる、それが彼女の才能なのだ。
本名の小泉今日子で活動していたのに、どこか架空の人のようであった、そのフワフワ感。
冒頭に「隙間をついて」と書いたが、これは、まぎれもなく、彼女のみが持っていた才能であり、松田聖子にも中森明菜も持ち得なかった。
そして、それは、ある意味、松田聖子よりも中森明菜よりも80年代的だったのだ。
そして、それは、ある意味、松田聖子よりも中森明菜よりも80年代的だったのだ。
「潮騒のメモリー」はドラマの後押しもあり、オリコン最高位2位のヒットとなった。
紅白出場とかもささやかれるが、「天野春子」名義で出した時点で、「小泉今日子」としては歌うつもりないんだろうなぁ。
「クライマックス御一緒に」をテレビで歌わなかったようにw
それにしても、なんで、「天野春子」名義だったのだろう。
1986年に「鈴鹿ひろ美」名義で出た設定だったものが。
1986年に「鈴鹿ひろ美」名義で出た設定だったものが。
ドラマの世界と現実の世界が不思議なバランスで混ざっている。
この辺も宮藤官九郎のセンスなんだろうなぁ。
でも、でもね。
ジャケットも「鈴鹿ひろ美」バージョンぐらいの本気度がほしかったなぁ。